新しいもの・こと

新しいものを取り込むことに否定的だったり、新しいことを始めるのに躊躇したりするなんて、考えてみたこともなかった。そうなっている自分を認めたくなかった。

10代20代なら新しいものに常に目が向いていたし、求めていたと思う。
誰も電車内で音楽なんか聴いていないころからポータブルのカセットテーププレーヤーを持ち、
テキストベースのMS-DOS全盛を横目にグラフィカルなMacで文章を書き絵を描き、
まだ大学や研究機関からしかアクセスできなかったウェブを漁っていたころ。
それらは自分が創造したものではなかったにせよ、自然に目や手が向かっていた。新しいものであるという認識すらなかった。
まわりからは、ポータブルプレーヤーは軽薄と言われ、Macはお金持ちのための遊び道具で仕事には向かないと言われ、ウェブに至っては一般の人が目にすることもなかった。
いつからか、新しいものをうさんくさいと思ってみたり、表面だけの中身の薄いものじゃないかと疑うようになった。心のフレキシビリティが失われ、新規開拓するのが面倒になったのだろう。新しいものを抵抗なく取り込む中心にいたはずなのに、徐々にそれを周りから眺めて揶揄するような、偏屈な批評家になりさがった。
それはつまり、世間から遅れ始めていたことの証だったのだけれど、それを認めないかたくなな心もあった。
iPhoneが出た頃。今でこそ日本におけるシェア1位だそうだが、当時は画期的製品と見る人間と、突拍子もない一過性のガジェットと見る人間があった。Apple製品を使い始めてすでに15年も経っていたが、そのときすでに私もiPhoneをポジティブな評価をする側にいなかった。しかし数年後、改めて手にしてみたときにこれはまずいと思った。コンパクトな機体の中に移動体の通信モジュールは当然として、タッチつき高精彩液晶ディスプレイ、大容量リチウムイオンバッテリー、広帯域のオーディオ、加速度センサーやGPSを含む各種センサー、カメラという先端ハードウェアがてんこ盛りで、しかもこれらは高次元でこれらを統括し、シームレスに取り扱うことができる高度なソフトウェアによって包み込まれている。一つ一つの機能だけとっても、それまでの産業用機器ではあり得ないサイズと精度、それに価格!それまでの電話と同列に見ていた自分は、一気に過去の人類になったかと思われた。
その反省があっても、かつてのように真っ白な気持ちで新しいところに飛び込めるかというとそうではない、残念ながら。
どうしてもしり込みするのは、何かを守ろうとする本能なのかな。いったい自分は何を守りたいんだろう?生活?これまで築いたちっぽけな地位とか?
新しいものを肯定できる人だけが、その時代の風を取り入れることができる。
せめて今はこれを教訓に、アンテナを高く張り(という表現がすでに古い)、新しいものを知り、試す姿勢を取っていきたい。一つ見つけたのは音楽系のハード。フラクシの仕事とは関係ないようで関係ある。これでフラクシのジングルをつくって電源の立ち上げ時に流す。そのうちこのウェブでもバックグラウンドに流れるようになっているかも。
「テラヘルツ発振器のテーマ」とか「パイロの気持ち」とか。うーん、新しい。

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